いざ中年の彼方へ

最近新聞で読んだのだけど、何歳からおじさんか、という問いに世間的には四十三歳というセンが一般的な回答だった、というのがあった。僕は今、四十一歳。ということはあと二年ばかりで世間から

「あなたはオジサンです」

と公認される年齢に到達した、ということなのだろう。

こういうことをどう捉えるかには個人差があるだろうけど自分自身の奇譚のない意見を述べさせてもらえるなら「ああよかった」というのが偽らざる今の心境である。

いや、まだオジサンじゃなくてよかった、ではなくてむしろ

「これでやっとオジサンになれる」

という気持ちである。

僕は若い頃から『早くオジサンになりたい』と思って生きてきた人間なのでこれで名実ともに(というのかな)立派な(かどうかは知らんが)おとっつぁんの仲間入りである。

『早くオッサンになりたい』とかまるで妖怪人間ベムみたいな話だが、申し訳ないがそう思っていた。

昔からなぜ中年というのはあれほどまでに忌々しくもエラソーかつ楽しそうであり、世の中の中心的な役割を独善的に担いながらも若者をこき使いつつしまいには役に立たない説教をしつこくしてくるのだ!許せん、そして早くオレもそうなりたい、と思っていた。

こういう感覚が一般的なのかどうかは分からないが、僕の年齢というのはちょうど親たちが世間で言うところの団塊の世代であり、その下にはバブルを謳歌した壮年の方々が大挙している世代なので、世代論というのは僕は嫌いだがまぁ、ペンペン草も生えていないような時代に生まれてきた、という側面もモノの見方や感じ方次第では言える部分が確かにあるのだ。

生きる喜びのようなものをどこに見出すかはもちろんそれぞれであり、どの時代や世代に生まれても自分らしく生きることは可能である、と僕は信じてやまないが、前述したような先の世代に言えることは『中年の威厳』というものをまだかろうじて残す人が僅かながらも存在していた、ということだと思う。

僕らの世代で将来「カーッ」といって痰を切るようなオヤジになる人がどれくらいいるのかは定かではないが仕事帰りに「おい風呂!」などと言うような夫になる男性は相当に少ないだろうし「はい、あなた夕食は秋刀魚の煮付けと熱いのを一本漬けましょうね・・」などと言ってお銚子を持ってくる奥さんになるような女性もほとんどいないのではないだろうか。

そんな家庭像が素晴らしいかどうかはさておいて、今の時代というのは男と女の役割というのが瓦解し、良い意味で平等、悪い意味でいうとスリルのない退屈な時代である。

こういう時代に川端康成の『雪国』のような小説を書く人間はまず出てこないだろう(このエッセイを書いていて思い出した自分の若い時に書いた小説をエッセイコンテンツに追加してみました。川端先生のような素晴らしい作品では断じてありませんが、ぜひご一読ください)。

若干話が封建的な方向に行き過ぎている感じがするのでコースを修正するけど要は今の時代、中年になったからといって安易に若い人間に威張れるわけではない。

そのことは僕は若いときから薄々感じていはいた。

僕がそれでも早くオジサンになりたかったのは、結論からいうと自分自身の若さ故に生じる様々な葛藤、自意識、見栄、性欲その他から一刻も早く開放されたかったというのが第一義的な理由である。

(二義的な理由も色々あったはずだがわすれてしまった)

基本的に若いというのは辛いものである。

これを読んでいるあなたが例えば十代とかで実際の年齢は若いのに「今そんな辛くないッス」と言えるとしたらそれは既に心が老生しているか(つまり若くないという事だ)、まだ何も深くは物事を考えてはいないからである。

そういう人がこれからそのまま楽に年齢を重ねていけるのか、はたまた今後思い悩む人生に突入していくのかは僕の知ったことではないが、個人的にはちょうど十代の半ばくらいから日々激しく戦っていたのは実は世間のイデオロギーや社会通念や体制哲学などではなく紛れもなく自分自身の自意識だったのではないかと最近になって気がついたのだ。

言語化できるようになったのはこの頃だが、おそらくその事はどこかで感じ取っていた筈で、だからこそ早く歳を取って楽になりたいと思っていたのだろうと思う。

実際に年齢を重ねていくと若いときの悩みやコンプレックスなどまるで蜃気楼だったのではないか、と思えるから不思議だ。

もうモテる必要がなく、偉そうな先輩に気を使う必要もなく、流行っているものやコトに以前ほど敏感になる必要もなく「オレはこれでいいんだ」と達観というか、諦観してしまえる。

(僕は現在2021年1月9日、君の名はを未だに見たことがなく、鬼滅の刀もおそらく見ずに死んでいくのだろうと予想している)

人間的には下降していってる気がしないでもないが、そういう境地に達さなければ見えてこない風景というのもまたあるのだ。

だが、これらの事を若い時にやろうとしてもダメである。それは堕落と呼ばれおそらくは自分よりも周りがそう簡単には許してくれる態度ではないだろう。

僕は実は若さ、というのはその強迫的な環境や立ち位置の中でしか感じられない人間の優しさや残酷さを知り、そして他者への共感力みたいなものを養っていくことにその価値があるのではないかと思っているのだけど、こういう事を突き詰めて表現していった多くの天才達はかなりの確率で夭折している。

若い人が感受性が強く美しいと語られることが多いのは実は感受性が鋭いだけではなくてそれを相対化して捉える人生経験がまだないが故の不器用さや純粋さからなのだ。

オジサン(オバサンは知らない)はこの辺が強い。

なんでも相対化しまくって「でもオレは知らねー」で済ますことがかなりの領域において可能になってくる。

足が臭くてもギャグが滑ってもハゲ散らかしてきて口臭クサくても「でもオッサンだしな」と思えるのだ。

よく世間でオッサンが嫌われるのはこの辺の往生際というか、理解が悪いケースであり、オッサンなのに流行りものが好き(なのは別に良いけど無理やり混ざろうとする)だったりオッサンなのに若い子が好きだったり(若い方にあまりメリットがない)、自分が歳がいってるだけで偉いと大勘違いしている場合などであり、こういう人は今後も若い人からはこよなく嫌われるであろうし、社会的には速やかに抹殺されるべきだと思う。

しかし、自分がこうしてオジサンの大陸に近づいてきて対岸を双眼鏡で覗けるような距離にまで達した今、その新大陸にいる人達は自分が若い時に接し「いつか殺そう」とか思っていた酷いオヤジや想像していたような野蛮な人たちばかりではなく、かなり素晴らしい人も相当いることが見えてきた。

多くは若い時に悩み苦しんでおり、今もそういう己の自我や心の傷を忘れずにいて、現在その渦中にいる若者の話を黙って聞いたり時には支えることも辞さず、自分の今の人生の中でその人の役に立つものがあれば躊躇わずに差し出せる、そんな人達である。

そういう素晴らしい中年、と本稿で槍玉にあげてきた『許せない老害』との進化の境目が人生のどのポイントに存在したのかは知るよしもないが、今の僕が考えていることはそのポイントがこれから先にあるのなら、見誤らずに正しい方へ舵を取ろうという事と、それに気づかすに既に通り過ぎてきたのならそれもまたやむなし、自分の人生を今後も楽しもう、せめて人に迷惑を掛けずに・・ということなのである。