哀しみは生タマゴのように

新年明けましておめでとうございます。

突然ですが、年も明け何か新しいことを初めたという人のほとんどが三日以内に初めたものをやめており、二月中にはやっていた事がなんだったのかすらも忘れているという『新年の決意崩壊論』といったものが昔からある、という話があるそうです。

こういう迂遠な書き方をしたのには訳があり、近年ネットで迂闊な事を発言するとすぐに「ソースだせ!」と怒られるといった風潮があるからですね。

ソースといってもとんかつソースじゃないことくらい僕にも分かる。

この話にソースやマスタードはありませんが、人間の決意というのは習慣にそんなに簡単に勝てるものでないということは、これを読んでいる多くの人に共感してもらえることではないでしょうか。

人の決意というものは生卵よりも脆い―。というのはこれまで40年間以上生きてきた自分をはじめ、ある程度の人生経験を経てきた人なら誰しもがおそらくは感じてきたことであり、だからこそ継続は力なりというスバラシイ言葉があるんだよ・・と、どこかの偉い先生みたいなオチでそろそろこの話は終わりたいところなんですが実は今回そういうことではなくて、僕はこの長年の通説を吹き飛ばすべく新年(現在2021年1月2日)からここにエッセイを投稿することにしました。バン!(机を叩く音)。

昔(2003年頃)初めて自分のノートPCを手に入れ僕がこの長い長いインターネット生活を初めた頃には、まだ辛うじて個人サイト、といったものがありマニアックな趣味や特殊な交友関係を持つ人たちがこぞってネットの上にテキストを投稿していたのです。

それがあれよあれよというまにブログになり、SNSになり今やブログをやっている人というのも相当根気のある人しか残っていないような世の中になってしまった。

昔は『ブログで食っていく!』とかよくネット愛好家の間では喧伝されていて、これは今のユーチューバーの『動画の広告収入で生きていく』というロジックと殆ど同じだったと思うのだけど、とにかく新しい何かを資本が定着させたい時には人に「ここであんたも何かをやんなさい」と何らかの餌(ここでいうのは広告収入のこと)を巻くのはむかしから全然変わらんな、とインターネット老害のような事を思うのですが、ここのエッセイはそういう目的ではなくて、音楽家というものがどんなことを考えてどんな日常を送っているのかを分かりやすく書く必要性をこの頃少し感じていたからなのであった。

「そんなことはない。オレはお前の日常や思考になどに興味はない」

という人が殆どなのはよく分かってます。しかしまあ座んなさい。

ここ(ホームページの事)ではブログというものが一応あり、あれは何かあると「へへ、新聞に載ったぜ」とか一応の実績報告のような事を繰り広げていますが、あれは実は多くの人に読んでもらうことはほぼ考えて書いていないのですね。

実は僕のような個人商店の人間が何か新しい仕事を頼まれる時、その多くは人の紹介や知人づてなのであり、その際に「こいつは音楽家とかいってるけど大丈夫なのか?そしてどんなやつなんだ??」とその人はおそらく僕の名前で検索を掛けてここにくるはずなのだ。

その時に『ワタシハイママデコノヨウナシゴトヲシテキマシタ』(なぜカタカタなのかは不明)という自己証明というのが求められるのであり、そこで普段友人向けフェイスブックで書いているような『年が明ける前に酔いつぶれたのでもう寝ます。おやすみなさい』とかいう投稿は出来ないのであり(してもいいけど)やはりその内容は極めて限定的に職業上のお話に帰結していくのは当然なのですね。

しかしそういうものを昔からの友人が読んで

「お前はそんなにカッチョいいことばかり言う男だったのか?!」

と苦言を呈してくれたことが少し前にあったのです。

僕はその時に前述の理由からホームページではあまり個人的な話は書かないことにしてますんで、と思っていたのですが、こうして長く音楽という目に見えないものを作る仕事をしていると最終的には作る人の『人となり』というようなものがかなり大きく仕事の質や注文の量に影響してくるな、と思う事が増えたのである。

だからこのエッセイを書いていくのは一つは今後の自分の仕事の為、もう一つは自分の精神安定の為、そして最後にもうひとつはコロナ渦で増えた自分のステイホームな時間を有効に使うため―、って全部自分の為じゃないか!!!?という驚愕を感じてひとまず次回に続きます。

書いている僕の労力の無駄、使っているサーバーのリソースの無駄、そして読む人の時間の無駄、という三方一両損のような気づきを得たところでとりあえず今年もよろしくおねがいします。