藝術大学の雪女

※この文章は今までのいわゆるエッセイではなく小説です。つまり内容はフィクションです。かなり以前に書いていたものをほとんど直さずにそのまま載せてみました。小説という『作品』としてしまうとかなり稚拙な文章ですが、今回のエッセイ(いざ中年の彼方へ)内で紹介した冬を舞台にした小説と記憶がリンクしたので引っ張り出してみました。この文章を書く時に聴いていた曲のURLもインターネットのホームページらしく貼っておきます。よかったら再生しながら読んでみて下さい。

Brian Culbertson I Could Get Used To This Feat. The Webb Brothers & Dave Koz
https://www.youtube.com/watch?v=6-20QlAZVDg

あれは数年前、冬の旅先でのことだった。

因美線で智頭から鳥取に向かう最終電車の中。誰も居ないと思って乗っていた車両の一番端の席に、車窓の雪景色を熱心に見ている女の子がいる事にふと気が付いた。

「あ・・人が乗ってる・・珍しいな・・」

ついさっきの誰もいないと思って口ずさんでいた自分の下手な鼻歌が彼女にどうやらしっかりと聞かれていたらしいことを知り、僕は急に少し気まずい気持ちになった。

「まいったなぁ・・ まぁ旅の恥は掻き捨て・・か・・・」

僕は無理やり自分を納得させて、それからしばらく静かに暗い窓の外を眺めていた。けれど、他に誰もいないローカル線のしかも夜の車両の中だ。自分以外の唯一の乗客である彼女のことを気にしないようにしようとしても、どうしても無意識に気になって様子を伺ってしまう。やがて向こうもそれに気付いたらしく何度か目が合うようになった。

おそらく学生の一人旅だろう。『でも、こんな時間に女の子が一人で旅行だなんて、最近珍しいな・・』と何となく感心していると、山間の駅での特急の待避停車中に彼女がカツカツカツ・・と突然僕の座っていた席へと近づいてきて不意に「あの、これ・・あげます」と言って小さいチョコレートを二つ、差し出してきた。

どうも彼女の方も同じように外の景色を熱心に見ていた僕に仲間意識を感じていたらしく(どのみち電車には二人しか乗っていなかった)「こんな時間にこんな所で旅をしている人は多分、自分の同類だなあ、と思って」と短く言って、自分は藝術大学の三年生で冬休みを利用してローカル線の旅をしているのだ、と目下の自分の事をおどおどと僕に説明した。

僕よりいくつか歳下の大人しそうな子だったが、僕が音楽をやっていると知ると急に熱心に自分の描いている絵のことや最近読んだ本のことなどを僕の前の席に座り話してきた。きっと長いローカル線の旅で、彼女も退屈していたのだろう。
特に夜の鉄道は車窓があまり見えなくなってしまうのでなんとなく手持ち無沙汰になってしまい、話し相手が無性に欲しくなるのものだ。僕にも同じような経験が何度かあるのでよく分かった。

「でも、何も無いところだけど来てよかった。こんな雪景色は見た事がないから・・」

彼女の旅の予定などを色々と聞いているうちに、どうやら彼女も僕と同じくその日は鳥取の駅前に宿を取っていることが分かったので(しかもまったく同じ駅前ビジネスホテルだということらしかった)じゃあ、宿まで一緒にいこう、という事になった。

最終電車が到着し、ホームに出ると冬の夜の寒さが僕らを襲った。

「うわ、寒い・・」「フロント閉まるから急ぐよ」雪が降り出した通りを歩いてホテルへと到着したのはもう夜中の十二時を回った頃だった。「こんな時間に予約の客が来た・・」と驚いているフロントの男性に「遅くなってすみません」「ごめんなさい・・」と謝りながら各々の部屋の鍵を貰い、じゃ・・とロビーで別れようとすると不意に彼女が「あの・・もう少し話ませんか。東京ではまだ起きてる時間だし、どうせ暇だし。あたしジュースしか飲めないんですが」と恥ずかしそうに言ってきた。

いくら旅先で意気投合した仲間とはいえ、男女が見知らぬ土地で同じ部屋にいきなり二人きりになるのはどうなんだろう・・そんなところだけ妙に常識的に考える癖のある僕は一瞬見えない壁を作ってしまったのだと思う。彼女がそれを察知して「あ、もう寝るんだったら、ごめんなさい・・つい・・」と申し訳なさそうに謝ってきたので、そうじゃないんだけど・・と僕は口籠った。
実は本音ではさっきから自分も冬の知らない土地での変わった出会いに名残惜しさを感じていた。

まぁ、サバサバした子みたいだしいいか・・。

「うん、いいよ。じゃ、後で部屋に来る?僕はビールを飲むけどいい?」と僕は彼女の誘いに応じた。数分後、手早くシャワーを浴びたらしい頬の下までの短い髪を洗いざらしのままで、彼女が廊下の自販機で買ったCCレモンを持って僕の部屋へとやって来た。

「こんな風に急に知り合いになって部屋で一緒に飲むのは普通はあんまりないことですね」

と椅子に座りながら悪戯っぽく彼女が笑った。「うーん、まぁそうかな。でも、まあ芸術家のやることだし大目に見てやるよ」と僕は照れ隠しに少し乱暴に彼女にそう言った。多少落ち着いてきたせいか、電車の中でもごもごと自己紹介していた様子とは打って変わり、少しだけ彼女は明るくなった。

「とりあえずは乾杯」

僕らはCCレモンとビールで小さく乾杯をし、それから取り留めのない話を交わした。彼女は実は卒業してからしたいことが特にないこと、今の課題があまり面白いと思えずに困っていること・・でも学校はとても好きで、友達はいないが先輩は親切にしてくれること・・など、色々と一人で淡々と話していた。

「でも、音楽作れるなんて凄いんですね・・」「凄いかどうかはともかく絵も音楽も皆描けるし作れるんだよなァ・・それを敢えて極めたいっていう難儀な人生だね、お互い・・」「ふふふ、そうかもしれないですね」

僕はビールの酔いと旅の疲れですぐに朦朧としてしまい、話の半分も理解してはいなかったが、適当にそんな相槌だけは打っていた。そうして小一時間もすると彼女の方から「じゃあそろそろ戻ります」と言って席を立った。

「あの、さっき言った芸術家ってあたしのことですか?」

と帰り際に急に彼女が言ってきたので「え、違うの?絵描きさんなんだろ」とやや寝ぼけながら僕はまた適当に応えた。「絵っていっても個展もしたことないレベルですよ。でもやりたいことはやるほうが良いとは思ってるんです。どうせいつかは人は死んじゃうから・・」

自分は普段は引っ込み思案で、人とこうして素直に話すことや初対面で打ち解けるのはとても苦手なこと、でも電車の中で同じようにずっと車窓の雪景色を見ていた僕に親近感を感じたこと、優しくしてくれてありがとう、と改めてそんな事を言ってから「おやすみなさい・・」と最後に小さく呟いて、彼女は僕の部屋を静かに出ていった。

その日は久しぶりに、いつ眠りに落ちたのかも分からない深い眠りだった。

「ああ・・よく寝たなぁ」

翌朝、目覚ましに起こされてカーテンを開けると窓の外は真っ白に雪が降り積もっていた。駅からの発車ベルや貨物列車の動き出す音が聞こえてきて、僕は慌てて自分の乗るべき電車の時間を確認し、荷物をまとめて部屋を出た。今日は更に北へと向かう予定で、始発に乗り遅れると今日中に目的地に辿り着けないのだ。

チェックアウトの時に夜勤明けらしい昨夜のフロントマンが立っていたので「昨日の女の子、もう出ました?」と軽い気持ちで尋ねてみた。

するとフロントマンが怪訝な顔をして「えっと・・どの女性でしたか?」と不思議そうに言ってきた。

「僕と一緒にここに着いた人ですよ」「お客様は昨日お一人で来られましたが・・その後でお部屋を出ましたか?」

逆に今度は僕が尋ねられてしまった。疲れてはいたけどそんな白昼夢みたいなものを見ていたとは思えない。電車で彼女に会った時からホテルに着いた時まではまだ酒も飲んではいなかったのだ。

「あれ、おかしいな・・あ、そうだ・・」

不意に彼女が昨日、自分の泊まる部屋の番号を僕に教えてくれていたのを思い出し、その番号を伝えた。「そこに泊まった僕の友人の事ですよ」「・・昨日そのお部屋は空室で予約は頂いてませんが・・」とフロントマンが益々不審な顔をしだした。僕はわけが分からなくなり、あ、もういいです、すみません・・と言い不思議な気持ちで駅に向かった。

「夢でも見ていたかな・・まさかな」

狐につままれたような気分になり、長年の癖でコートのポケットに手を突っ込み歩き出そうとすると、ポケットの中で僕の手が何かに触れた。取り出してみるとそれはクシャクシャに丸まったチョコレートの包装紙だった。

抹茶味といちご味の二枚。

「でも、あのフロントマン、昨日は僕一人で来たって言ってたっけな・・」

僕はもう、それ以上は深く考えないことにした。

どちらにしても、彼女とはもう二度と会うことはないということだけは確かな話なのだ。いつからか旅先で出会った人と、互いのアドレスの交換などは滅多なことがない限りはしないことにしていた。

冬の駅前の冷えた空気を深く吸い込み、僕は朝の改札を足早に通り抜けた。
発車する電車の窓から昨日の夜、彼女と一緒に歩いた通りが一瞬だけ遠くに見えた。

窓の外には白い雪がいつまでも降り続いていた。