近頃最も泣いた話

唐突だが最近あなたが泣いたのはいつですか。昨日ですか。一昨日ですか。

人にもよると思うけど、大人になった男性で

「それは昨日の夜のことやね。むしろ毎晩泣いてますがな!!」

などという人は若干辛い人生を歩んでいるのではないだろうか、と心配になる。

泣くという行為は人の感情の振り切れそうになったシグナルを正しく解放するための生理現象であり、必ずしも辛いとき、悲しいとき、やりきれない時・・ばかりに涙するというわけでもないので、世界の名作に感動の涙を毎晩ニッカウヰスキー片手に流すのが明日への活力なのサ、という人がいても別に良いのだが・・。

個人的に言えば、昨年スズメバチに刺されるという惨事に遭った時、思わずその痛みに涙が『ジワリ』と浮かんできた、というのがもっとも記憶に新しい涙の場面である。いや、よく考えたら数ヶ月前に酔っ払って二階の階段から滑り落ちた時か?

とにかく子供の時みたいに声を上げて涙を流しワンワン嗚咽する、などという事は記憶を辿って二十歳くらいまで思い出してもあまりない。

男というのは会社で叱責されたり、女に振られたり、二日酔いで死んでしまいたいくらいの朝を迎えた時にもあまり簡単に泣くものじゃないのだ、という社会通念的ある種の想い込みがあり、それが感情を抑制している、という考え方も出来るが、個人的に言えば(今回は個人的な話が多いのだ)全力で泣き叫ぶような感受性もかなり鈍くなってしまった、というような気がする。

悲しみが深い人は喜びも深い―、と何かで目にした記憶があるので大人になってあまり泣かなくなったという人はもしかしたら感情の振り幅が狭くなり喜怒哀楽にそこまで動じなくなった、という事も言えるのかもしれない。

まあ、これは良いこと悪いこと両方あるが、生きていく上で多少の図太さは必要だろう。人生は辛いものな。

そういえばここまで書いて思い出したのだが、昨年祖母の自宅を大片付けした時の話だ。

僕の祖母という人は父方と母方二人いて(当たり前だが)二人とも既に他界しているが昨年片付けたのは母方の祖母の家の方だ。

震災のあった年に長年患っていた肺の機能が低下し施設で亡くなってしまったのだが、その祖母は亡くなった施設に入るまでは長年自分の家で一人で暮らしていたので(祖父は遥か昔、母が高校生の時に既に亡くなってしまった)、その家は祖母が入院し亡くなってから昨年までの数年間、空き家という名の廃墟と化しておりその片付けは僕たち一族の常に懸案事項として残っていた。

一度、鍵を借りて足を踏み入れた事があるのだが古い家で人が誰も住まなくなった家屋というのはある種の不気味さをたたえており、親族の家であるという事実がなければあまり長居したいような雰囲気のものではなかった。

老人の一人暮らしが長かった為と物を捨てられない祖母の性格が災いし色んな物がゴチャ混ぜになって、使われていなかった部屋などにはそれらがうず高く詰め込まれており、これを片付けるのは本当に気が遠くなるな、などと思ったのを覚えているのだ。

そんな中で僕が唯一気になって目をつけていたのが祖父の古いレコードプレーヤー(正確にはその付属の巨大なスピーカー)である。

いかにも昭和製の雰囲気のあるオーディオの作りの良い物で、これは捨てずに活用できないだろうかとすぐに思ったのだった。

しかし、なにせ図体のデカいものなのでいざ、さあ片付けをするぞ!となったときにも車の後部座席に一つずつしか運べず、運搬に非常に難儀した。まだ音は出せていないが今はきちんと実家の部屋に確保してあるのだ。

その時にいわゆる家具調オーディオ・・というのだろうか、の収納部分から大量のレコードも発掘された。

タイトルはよく分からない任侠ものや昔の演歌、懐かしのゴールデンヒットや何故かキャロルなどもあったが僕の聴きたいものはあまりなく熟考の末、ロミオアンドジュリエットのEPとスクリーン・ミュージック・ライブラリーという昔の映画の音楽を集めたオムニバス盤を持ってきた。

どれも相当に古いものなのだ。

レコードなどというのは僕の世代だとあまり聴いたこともない人が殆どだと思うのだが、諸先輩方の指導の下、僕の叔父さんの部屋から持ってきたポータブルのレコードプレーヤーでそれらを聴いてみる事ができた。

実に味わい深い音質と雰囲気でなんだかシミジミとしてしまう一時を過ごしてしまったのだが、そうやって古いレコードを聴いていた時、ある曲が流れ出した瞬間に僕は固まり、不覚にも落涙してしまったのだ。

それは『雨にぬれても』という有名な曲のスキャットバージョンで(ラララというやつ)パチパチ・・というレコードのノイズと盤に刻まれた時代の空気が一気に音質の悪いスピーカーから部屋に流れ出しやがてそれらが充満し、僕の中の何かを刺激したのはもはや疑いようがなかった。

祖母の元気だった頃の表情や、みんなであの旧い家で過ごした過ぎし楽しき思い出、大人になってから一人で訪ねて行った時の事、祖母が入院してから亡くなってこれまでずっと空き家だったあの家の無人の空間の昼と夜の中で、ポツンと誰にも聴かれることも触れられることもなく眠っていたレコードの事・・そんなことを思い、僕は随分と久しぶりに殆ど本気で涙してしまったのだった。

考えてみれば、それはとても良い涙に違いなかった。

それと同時に「ああ、やっぱり音楽は良いものだなあ」としみじみと感じた。

この曲の作曲者も歌った人もこんな日本の片隅でこんな形で自分たちの作品が誰かに届くとは考えもしなかっただろう。あくまで懸命にその時代に創り、歌ったものがレコードという形態を取り僕の祖母の家に残っていたというだけの話だ。

・・にも関わらず、僕はこのレコードの音楽達は(あくまで僕にとってだが)僕にこういう出逢い方をして完成したんだな、とも本気で思ったのである。

音楽というのは作り出す方がどれだけ『このようなシチュエーションで聴いて欲しい』と願っても作り手の手を離れた瞬間からそれは既にどのように誰に届くかはもはやコントロール出来ない表現形態である。

表現者に出来るのは生み出し、送り出すところまでだ。

にもかかわらず、僕は音楽というのは受け取る側がどのようなシチュエーションや形で受け止り、記憶するのか…までが音楽の持つある種の運命だと思えてしょうがない。

そこには無限の可能性や出逢いがあり、その全てが正解でありそこには誰にも共有される事のない一つ一つの『完成』があるのだろう。

だからこそ、このネットワーク時代になった今でもYoutubeの音楽のコメント欄には熱い書き込みが絶えることがないのだと思う。皆、その自分なりのその音楽の出逢いとその作品の完成に携われた喜びと感動を、誰かと共有したいのだ。

今度は自分が表現者となって。

そして僕はそこにこそ音楽の持つ豊かさと素晴らしさがあるように思えてならない。

作り手が決してコントロールの出来ない領域で、その作品が様々な変遷を経て、誰かに出逢いそこでその人の人生の『ある時代』に解き放たれ、その人の思い出を鮮やかに彩っていく。

思えばそういう音楽の持つ『未完成』で『不安定』で、だからこそ『自由』な部分に僕は強烈に惹かれ、こうして仕事として音楽をしているんだなあとしみじみとそのサウンドの中で感じ入った。

今でもそのレコード盤は自宅にあり、思い付くとそこに針を落としてみるのだが、そのレコードの再生までの一連の作業を煩わしく感じ一度MP3にしてみたことがあるのだが、どういうわけかあの時の感動はおろか、その満足度はいつもレコードで再生している時の感動の百分の一にも満たない。

アナログで刻み込まれた時代の空気が頑なにファイル化や安易なテクノロジーに飲み込まれるのを拒んでいるようでとても面白いと思うのだ。

今もあの『雨にぬれても』を聴きながらこの文章を書いている(もちろんレコードで)。

数十年、誰にも開けられることのなかったラックの奥で誰かにもう一度出逢う日までひっそりと眠っていた一枚のレコードの運命と歴史を思う度、僕にはあの時の感動が蘇る。

そして雨にぬれても風に吹かれても明日からも何とか生きていこう―、と心から思うのだった。