今年に入ってから休肝日を設けたのである。
週に一度。日曜日。
今夜は一滴も酒を飲まずに清く正しく生活しましょう。と、誰に言われたわけでもなく、自分でそのように策定したのだった。
週に一度と聞いて「そんなもんか・・」と思う人と「なかなか頑張るな!」と思う人、二種類あるように思うのだが、
前者はたまのリラックスタイムにアルコールでも体に入れてみるか・・といったあくまでも嗜好品としての酒との付き合い方が出来ている人。
後者は殆ど習慣として無意識に(しかし俄然積極的に)酒を飲んでいる人か、もしくはアル中の方だと思うのだが、あなたは一体どちらのタイプであろうか。
以前のエッセイで『晩飯は酒を呑むので米の飯は食わない』というような事を書いたと思うのだけど、基本的に休肝日を己で課した今でも酒のない晩飯など考えられず、突然現れた(自分で決めたわけですが)この日曜の夜の空虚に大いなる狼狽を隠せない想いなのである。
思えば酒を飲み始めてどれくらいになるのだろうか。僕の場合はビールだが、じわじわと十代の後半くらいから飲み始めて今に至るまで果たしてどれくらいの量を飲んできたのであろうか?!ということを考えるとその思考のロマンに心は果てしなく浮き立つわけだが、モノの本で読んだところによるとかなりの大酒家の人の人生でもその人生で飲む酒の量というのは二十五メートルプール一杯分くらいということらしかった。
僕の感覚では関東地方とは言わなくても行徳駅前を軽く三丁目くらいまでは沈めるくらいの量は飲んできたのだろうナ、という想いと淡い期待があったのでうーん、意外と飲んでないもんなんだなあと割と素直に落胆してしまった。
あんた方ねえ、二十五メートルプール一杯分も飲んだらもう十分でしょ、という人もいるかもしれない。
そういう人の方がまともなんだろうなあと思う気持ちとお前らに分かってたまるものか、という屈折した想いがなぜか胸の内に去来するのを禁じ得ないのだ。我ながらおかしな感覚だよなあ、と思うのだけどこの辺は自分の大好きなものが時と場合によっては軽蔑の眼差しで見られているのを割と素直に悲しんでいる態度であると理解してもらいたい。
(軽蔑されているのは酒そのものというよりもむしろ自分自身なのかもしれないが・・・。)
しかし、なぜそこまで酒などというものに拘泥してしまうのか、という事を時折真面目に考えてみる。
作家、町田康氏の意見を引用したい。
氏曰く、『酒というのはアンプであり、哀しみや喜びを増幅させるものなんですよ』という意見が実に的を得ていると思うのだ。
実際に悲しい時に酒を飲めばその感情は緩和される部分もあるが、思考の何処かでそれらがより鮮明になっていく感覚も確かにあり、それを打ち消す為に更に飲んでいく、という悪循環に溺れて身を持ち崩す人もおそらくいるのだろう。
逆に楽しいことがあった時、世の中には祝い酒という言葉もある通り、その喜びを更にコーフン的にバクハツさせる作用も酒にはまたあるのだということも多くの人が納得してくれることだと思う。
その精神作用性に酒好きの人というのはある程度(かなりというべきだろうか)心を奪われている感は否めなく町田氏曰く、
「禁酒前は酒は飲まなければならんものだと思っていた。家に帰って早く酒を飲むために近所のスーパーマーケットでネギを買っていたりする時に、レジでモタモタしているオジンとかがおると殺すぞジジー、さっさとせんか!!!くらいに思っていたけど酒をやめた今は、オジイチャンゆっくり買い物してはるねえ〜くらいの穏やかな気持ちでいられる」
ということらしかった。
僕の場合に限っていえば酒を自棄酒的に飲んだことはなく、飲むなら楽しい酒を飲もうと決めている。
これは極論すれば『酒を飲むために楽しい人生を送ろう』とさえ思っているのだ。
自分が何かに奮起したり真面目に取り組んで力及ばずに挫折感を味わったり敗北を喫し(それが何になのかはわからないのだが)苦渋の想いに沈み、好きな酒も楽しく味わえなくなるくらいなら、もう最初からそんな想いをすることなく安逸に、せめて美味しい酒を飲める程度の人生を送り、そして出来るだけ心穏やかに末永く過ごそう―。と思っているのかもしれない。
上昇志向や向上性というものからここまで乖離した生き方、態度というのもそうそうないと思うのだ。
―せめて美味しい酒を飲める程度に・・・といった程度の頑張りしか自分はこれまでの人生してこなかったのであろうか、というある種の驚愕の気づきを得たところで、今回はそろそろ筆を置きたい。
今日は奇しくも(何が奇しくもなのかはよくわからないのですが)火曜日である。
週に一度、日曜の休肝日をようやく設けた自分がこの瞬間、素直に思うことは、今は一刻も早く家に帰って酒飲もう、日曜までにもう飲めるだけ飲んでしまおう、という考えであり、悲しくても楽しくても飲んでしまうのが酒なら『もう次の日飲む気も起きないくらいに飲んでしまえばせめて翌日は飲まなくても済むのではないだろうか』というどこまでも愚かな想いなのであった。