前回投稿したように僕にとって初めてのボーカルライブを行ってきました。
ライブ内のMCでも発言したのですが、とにかく人前で歌をうたうというのは音楽の表現の中でも最も苦手意識のあったことで、それを敢えてやる、という気持ちになれたのはひとえに素晴らしいメンバーとの出会いの賜物だと思います。
こうして観返してみると声が上ずっていたり(緊張している)高いところに届かなかったり(元が大澤誉志幸さんの曲※元キーですからね)完成度とかいう前にまだまだな所ばかりですが、二人の演奏のクオリティと精度に助けられてなんとか最後まで歌い切ることが出来ました。
最近やっと音楽の楽しさが分かるようになってきたというか、楽しめるようになってきた気がしてます。
僕はここ数年、不登校の子どもや引きこもりをしている子たちと非常に多く接点のある環境で生活しているのですが、今の時代『何かをやる』というのは何故かハードルの高いものになっている部分もあると思います。情報として色々な事を処理しているうちに自分が何かを生み出す機会を逃してしまう、という風潮が世の中に蔓延している気がしないでもないのです。
僕は死ぬまで個人主義を貫こうと思っている人間ですが、そんな自分でさえ生きている中で「この人はどんなことがあっても決して自分を認めないんだろうな」
という人に出会う事が稀にあります。
それは、つまり単純な評価軸の違いだったりもするんですが、よくいわれるように
他人の三分の一は自分に無関心で
三分の一は何をしても否定する人で
残りの三分の一がどんな事があっても(何をしても)味方で居てくれる人たちだ、という言説がありますが、僕の感覚的には三分の二くらいは基本的に自分を否定してくる人々なんじゃないかと思ってます。
ただ音楽とかバンド、コンサート、というのはその構造を根底から変化させうる力を持っているものに感じる時もあって、かなりの多様性を持つ人たちがその瞬間、同じ感動や喜びを分かち合える貴重な時間に思います。思えば僕も不登校をしていた小学生の頃、鼓笛隊や学校の部活の音楽では僕はまったく評価されず、発表会に置いていかれたりもしたことがありますが、あの時の自分が学校教育の中での音楽や集団に認められていたら、おそらく今の僕にはなっていなかったと断言できます。
やりたいことや好きな事を見つける、なんて周りは簡単に言うけど言われる本人にとってそれはそんなに簡単で安易なものじゃない。
何もしたくない、ということが最もやりたい事な人だっていると思うし、むしろそういう人が生きやすい社会の方が成熟した社会なんじゃないかとも感じます。
ただ、何かをやりたいと思えた時に周りがそれを否定しない、応援してくれるという状況が常にあること。
大人はともかく子ども達にとってはそんな社会を大人である我々が構築しそれを残していきたいなと思います。
今年もうかうかしているともう半年、というところまで来ていますがまだまだ音楽を頑張りたいと思います。
ichi