今この本を読みたい

深夜に衣装ケースの奥に押し込んでいた黒いセーターを取り出した。

このセーターのことはもうすっかり忘れていたが、作家の辻仁成さんの気に入っていたセーターが縮んで(縮ませられ)もう着られなくなった、という文章を読み、ふと思い出して引っ張り出して着てみたのだ。

A.P.C.という昔好きだった(今でも好きである)ブランドの黒いタートルニットで綿なので洗える。

ざっくりしたシルエットと上質な材質で実に動きやすく着ていて気持ちがいい。ニットというのは手入れも面倒だしそれから老人にはどうもくたびれたデザインに見えるらしく親父に「そんなのは捨てろ」などと言われたことがあるので、つい敬遠して袖を通していなかったのだが、改めて着てみるとそれは実に心地よく僕の体を包み、あたかも自分の表皮の一部であるかのように自然に僕の心と体を温めた。

よく考えたら洋服なんてものは自分が気に入っていればボロボロだろうが、傍目に見すぼらしかろうが着られる限りは着ていていいのだ。人前に出るときはそれなりに見栄えのするものに取り変えて取り繕うにしても、自分自身の一部に思えるような衣服になんてそうそう巡り合うものでもないのだし。

今回は今のコロナ渦の中、家で本を読もうという潮流を意識して取り繕わない僕自身の『いま素直に読みたい本』それからこのエッセイを読んでくれている方にもぜひ読んで欲しいお勧め本を紹介します。そして蛇足ついでに書いておくとここで紹介する本は殆ど小説です。

今、書店のベストセラーの棚などに行くと、いわゆるハウツー本や有名人の自叙伝、それから自己啓発本などが普通にランクインして(殆ど上位を占めているのはそういった本かもしれない)いるけど、僕は基本的に普段の読書で読むのは小説です。

作家、宮脇俊三さんが仰っていたようにインタビュアーが取材してあたかもその人の著書であるかのように出されている本は話として面白ければ話として出せばいい、というのは全く同感で著書というのは自分で書いて紡ぎ出された物がそう呼ばれるに相応しい。

それから自己啓発的な本など、やたらわかりやすい格言みたいなものが沢山出てくるのは僕は苦手である。

これは別に格言が悪いと言っているのではない。が、あまりにも分かりやすい格言や教訓の羅列というのは言ってみれば化学調味料のようなもので、それだけを取り入れるという行為はつまりコンソメの素を丸かじりするようなものだと思うからだ。

味もわかりやすく刺激は強いし中毒性もあるので癖になるに違いないが、体に良かろうはずはない。そして、それを使う人も周りの反応が早いのはとても気持ちがよくて安心できるし、おそらく使用過剰になるだろう。

何事かを人から学ぶときや、自分が何かに気付くときというのは混沌の中から自分の意思でその『何か』をすくい上げ、そこに自分で光を当ててそこに反射するものを自分で見つけ出さなければいけない。

(同じように人に何かを伝えるときというのもそういう根気や手間暇を惜しんではいけないのだと思う)

閑話休題。小説を読むという行為は敢えて混沌の中に自分で飛び込んでいくようなもので、人生という大海を泳ぐ上でもとても良い練習になるのだ。

そこで得たものはきっと安易な格言や他人の成功体験やアドバイスなどよりも自分の身に深く染み渡るに違いないと僕は勝手に思っている。

あ、これは別に僕が人の話を利かない言い訳ではありません、念の為。

喜多嶋隆『ぼくとミセス・ジョーンズの夏』

僕が小説というものの魅力を知り、他人の紡ぎ出すストーリーに浸る気持ちよさを教えてくれたのは何と言ってもこの作家によるところが大きい。

椎名誠さんや町田康さん、辻仁成さんなど大好きな作家さんも数多くいるのだが、僕にとっては彼らの作品を読むという行為は文学というものへの憧れに接したい、という想いが僅かにそこにありその気持が頁を捲らせる。

もちろんどの作家の作品も面白く自分の世界を広げてくれる確かな地平がそこには広がっているのだけど、喜多嶋さんの作品というのは『自分の原体験や自分自身のアイデンティティをそこに確かめたい』という気持ちが、いつも僕にその本を手に取らせるのだ。

喜多嶋さんの著書に多く出てくる夏や海辺の風景、そして思春期から青春期の移ろいやそれでも夢を諦めないでいこうよ、という軽やかな(しかし意志の強い)メッセージは他のどの作家の本よりも僕にとって強い共鳴性がある。

この本は、喜多嶋さんが長年書き続けてきたそんなテーマの一つの完成形であるように僕には思えるのだ。

米軍将校の妻とマリーナでアルバイトをする『僕』のひと夏の物語。

それから同時に収められている『ヒマワリが笑っていた』も珠玉の一編。

夏が近づくと思わず手にとってしまう大切な一冊です。

椎名誠『哀愁の町に霧が降るのだ』

椎名誠作品の傑作であり代表作であるとこれまた勝手に思っている。

僕の大好きな椎名さんの学生時代から社会人の初めの頃までの事が書かれている、自伝的小説。椎名さんの長年の週刊連載『風まかせ赤マント』でイラストを書いておられたサワノさんやその後の東ケト会(東日本なんでもケトばす会)に繋がる顔ぶれの若かりし頃の姿や、高度成長期真っ最中の東京の光と影を実に楽しく読むことが出来ます。

僕が好きなのはみんなで安酒を安アパートで飲む酒盛りのシーンなんだけど、アパートの隣人への騒音を気遣って近くの高架下へと宴席を移し盛り上がる(だけど遠くの夜景を見つめて何故かしんみりとしてしまう)シーンなどは特に大好きな場面。

僕はこの本を読むと何故か酒が飲みたくなり、そして懐かしい友人に久しぶりに電話をしたくなる。

こういう時代に生まれたらきっと楽しかっただろうな、と思わずにはいられない椎名誠作品の初期の名著である。

野中英次『魁!クロマティ高校』

いきなり漫画なのだが、僕の大好きなギャグ漫画の一つがこの『クロ高』こと『魁!クロマティ高校』という作品である。

隠れファンも多くフェイスブックで「これ面白いですよ」と昔投稿したら「実はオレも」「私も」という人が意外と多かった。

漫画から今のお笑いに至るまで、ある種のナンセンスギャグやシュール路線というのはかつて週刊少年ジャンプ連載だった『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』がその歴史以前と以後を隔てているというのは過言ではない(物凄く過言かな)と思うのだけど、クロ高はある意味では昔懐かしいストーリーギャグ(オチのための伏線)を大切にした丁寧な手法で読者に「クスクス→ドカン」という正攻法な笑いで攻めてくるのだ。

ナンセンスギャグというのはその一つ一つがオチみたいなものだけど、ドカンドカンドカンとギャグの波状攻撃をしてくる平成以後のテンポ感ではなく、このどこまでものまったり感はあくまでも懐かしき『昭和のテイスト』を感じさせる。

不良高校へと間違えて入学してしまった優等生、というシチュエーションはそれだけでもう素晴らしい状況設定なのだけど、自分の意思があればどこでも勉強など出来る、という事を証明する為に『引き算が出来れば受かる』というその不良高校へと一緒に入るつもりだったヤンキーの友達がまさか受験で落ちてしまった―、という衝撃の初回からどこまでそのスタンスで飽きられずに続けていけるかというのは、これは書く方にも編集者サイドにとってもある種の冒険だったと思うのだ。

週刊連載でこれでは読者も早晩飽きてくるだろうし・・・。

読み切りならきっと伝説になっていたと思う(いや、それはないかな・・・)。

でもやっぱり面白いので一巻だけは手元にいつも残しています。

野中さんはこの作品で第26回講談社漫画賞。やはり凄い作品なのです。

宮脇俊三『時刻表2万キロ』

旅行にいけない今だからこそ、お勧めしたい本です。

僕がメールやLINEという日常的なものからこういうまとまった文章を書く上で大変に多くの影響を与えてくれた方で、こういう紀行文をあくまでも文学として読ませるという手腕と言葉選び、そしてある種の割り切りはとても文章の勉強になります。

宮脇先生のライフワークだった国鉄の完全乗車までの話が書かれていますが、僕が好きなのはその過程での宮脇先生の胸中の声や独り言のような部分。当時の社会の今も歴史に残っているような出来事ではなくて、普通の生活や世の中の変わらない雰囲気を感じられ、生きる無常に気が付く。でも、だからこそ楽しもう、どんなことでも―。という、とても元気な気持ちにさせてもらえます。

僕は先生が国鉄完乗を成し遂げた(ご本人はそんな大それた思いではなかったと思いますが)足尾線(現在のわたらせ渓谷鐵道)の足尾駅へ行き先生の生原稿も見てきました。

ここに書かれている昭和中期から後期までの出来事は、僕もあなたも鉄道に乗れば今でも簡単に真似出来ることであり、にもかかわらず仮に同じ所業に及んだとしても誰一人として同じ結果や内容にはならない、というところが鉄道や旅行、人生の奥の深さを感じさせてくれると思います。

銀色夏生『ひょうたんから空』

詩人、銀色夏生さんの初めての小説。僕は銀色夏生さんの詩や写真の長年のファンなのですが、この本もとても大好きな作品です。限られた登場人物、そしてその日常の中で起こる些細な事を書いているだけ。だけど何故か面白く読んでいて納得出来る。

何も起こらないけど、その中で色んな事を考える、そして日々は続いていく―という状態が一番好きでそんな作品を書いてみたかったと銀色夏生さんがあとがきで書いているように、まさしくそんな本です。だけど、こういう視点や感じ方を今の人は忘れているんじゃないだろうかとふと思う。

いつも何か面白いことや新しい情報、コンテンツに簡単に接することが出来る今という時代は何気ない日常というものをゆっくりと味わう贅沢を忘れさせているような気がしてならない。そしてそこへはスマホの電源を落とし、深呼吸すればすぐにでもアクセスできるんだった―、と気付かせてくれるとても和やかな一冊です。読書するのや小説を読むのが初めて、もしくは久しぶりという人にお勧めしたい本。読みやすく何気に深いです。

以上五冊、僕の今好きな本、気になる本、改めて読んでみようと思っている本を紹介してみました。

読書というのは自分自身の感じ方が全てなのでここに書いたような事をすべての人が感じるとは限りません。だけど僕自身がこれらの作品を読み、感じたことや学んだことを取り繕わないで書いてみました。

もし機会があり、これらの本をあなたがどこかでもし読む事があれば感想などを送ってもらえたら嬉しく思いますし、更に共に語り合う事ができればとても楽しいだろうな、と思います。

一つの本を囲んでみんなであーだこーだというのはYouTubeの動画のコメント欄とはまた違う共時性があると思うし、そういう贅沢をたまには味わってこその人生かなと思います。